普天間の三叉路に鳥居の見える杜が普天満権現ともいい琉球八社の一つである。 昔首里に出現した女神が普天間のおくま洞穴にこもられたという縁起は一般に良く知られている。 かつては、普天満参詣といって、中山王はじめ、一般の人々の参詣があり、現在でも年中参詣者は絶えることがありません。
喜友名は、集落全体が基盤の形のように規則正しく区画整理された古き時代のの計画集落のひとつです。 そこには、あたかも集落を取り囲むように石彫りのシーサー(獅子像)があり、部落や屋敷内に他から厄や忌み嫌われるものが入らないようにと置かれています。 シーサーは七体あり、集落の東外れに一体、南外れに四体、西外れに一体、北外れに一体置かれています。それらは威厳にみちた立ち講えやユーモラスな顔つきをしたもの、 普通の穴だらけの山石と見違えるものなど、表情豊かなシーサーたちが集落を守っています。
古老によると、この石畳道は今から五百程前の護佐丸の時代に築かれたとも伝えられています。 すなわち、「護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)」のときに、阿麻和利の軍勢により敗れた護佐丸の妻子が、その石畳道を登って逃げるとき、 追っ手に射かけられた弓矢により彼女の袖が引き離されたことをもじって、「袖離れ坂(スディバナビラ)」と呼ばれます。また、沖縄民謡『挽物細工』の語りにも、 この急坂に立ち周辺を見下ろす歌詞があり、中城村一帯の田園風景が一望に見渡せる格好の名勝になっています。
野嵩クシヌカーは、部落の南側にあるメーヌカーと共に野嵩区民の共同生活用水として長く利用されてきた湧水であり、宜野湾市の生活用水の歴史的移り変わり、 すなわち、自然水活用から人口配水利用への流れを知るうえで貴重なものです。野嵩クシヌカーは、区民の伝統行事であるウマチーやウビナディなどの節々の拝み、 子どもの出生の時の湯浴に使われる「産水」、新年を迎える時に身を清める「若水」など区民一人一人の人生の節目に利用される大切な水として利用されてきました。
察度は成人すると、勝連按司(首長)の姫をめとり、カマドや畑にあふれる金銀を元手に“桜閣”を築き、住民の信望を集めて浦添按司(中山王)となった。 その“桜閣”跡が「黄金宮」であると考えられる。
大山貝塚は、私達宜野湾の先人たちが、長く地元の大切な拝所・風葬(墓)の場所として、大切に現在まで保護してきた遺跡のひとつです。 1899年(明治32年)7月、沖縄県立中学校に赴任した青森県出身の加藤三吾先生は、沖縄各地の御嶽・ウガンと呼ばれる村落の拝所を「太古村落の遺址」と考えて調査しました。 そのひとつに、ここ大山の「ヤホソ森」御嶽の御「ミソカ・イマホラ」と呼ばれる竪穴形の石灰洞があり、磨製の石斧3例と盃形の凹凸を採集されました。 それは、私たち宜野湾市の大昔の歩み(原始・古代史)を探る考古学調査の始まりでありました。
沖縄県が「琉球国」と呼ばれていた1372年、沖縄中部地域(中山)の王として公式に始めて中国明朝と外交を開いた人が、この碑文に記される私たちの郷土の偉人察度です。 彼は、清泉「森の川」で出会った貧しい奥間大親と天女の間に生まれた高貴な人物とされ、その田畑には金銀が溢れ、黄金宮(現在大謝名在)と呼ばれる楼閣に住んでいたと伝えられています。 その金銀とは、当時の「謝名(現在の大謝名・真志喜・大山の総称)」地域の土地・海幸の豊かさと住民の勤勉さをものがたっているのでしょう。
大謝名メーヌカーは、私立大謝名小学校の裏側にあり、地下水が流れ出る洞穴に山羊のあごひげのような“樋”をかけて湧き水を導く形式の湧泉です。 大謝名区では、上水道が完備するごく最近まで、日頃の生活用水はもちろん、新年を迎えるときに身を清める正月の「若水」、子どもの出生の時の湯浴みに使う「産水」などは、 この湧水の水を利用していました。その恩恵にこたえて、区民の方々はいつまでも、正月、二月、八月の節々にカーウガミ(泉拝み)を行っています。 湧泉の正面は、大きな石柱で区画された三本の樋の架かる水口を残して、洞穴の開口部全体を布積みの切石で頑丈にふさいでいます。樋の下には、市内のほかの湧水にふつうにみられる貯水槽はなく 階段の敷石になっています。また、周囲の土溜め壁の石垣は大きな石を使用し、一部に切り石が見られますが、そのほとんどは自然石の野づら積みで三段に積まれています。 正面には、水の香炉を安置した個室があります。湧泉に降りるカーピラ(泉坂)と呼ぶ石畳道は、幅2〜2.5、長さ約24cmの25段の石段がつくられ、踏み足もきれいに残っています。
我如古ヒージャーガーは、今から98年前の明治25年(1892)、部落の新末吉と上間家の勝れた石工二人の指導により、部落民総出で半年の月日をかけて現在の石造りに仕上げたと伝えます。 この湧水の素晴らしさは、やはり明治22年頃に造られた喜友名カーグヮーの石積みと同じように、不整形な積み石の面がカミソリさえも差し入れられないほど精巧にかみ合う “あいかた積み”の手法が湧き口に降りる十五段を数える石畳道の下側の五段部分が自然の岩盤を削って仕上げられ、それが左右両袖の“あいかたと雑積み”石垣の基礎となっていることなのです。
去る沖縄戦では数多くの人々が亡くなった激戦の地「嘉数高台」の北側には、中城村境にある琉球大学構内より延々と4.5kmも長く続き、国道58号線を越えて西海岸へと流れる比屋良川が あります。市内でも数少ない緑豊かなその川筋の両脇には、そそり立つ十メートル余りの断崖を、多いところで三段も横穴状に掘り込んだ数百年にさかのぼる古い墓群が連なっています。 小禄墓は、そうした川べりの急な崖の中腹を掘り込んで、前面を切り石や自然の雑石でふさいだ古い形の墓です。墓の大きさは幅八・五メートル、高さ二・四メートルを測りますが、 葬式の時に御矯(肩にかつぐ輿)がそのまま入ると伝えるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目的がついていて、幅一・七メートル、高さ二・四メートルの範囲がいつでも取り外せるように 工夫されています。
旧6月15日の後日の日曜日に大山小学校と真志喜公民館前で催す。 男女のシンボルをまねた綱の形、綱を高く上げ勝負するアギエーはこの地域だけの特徴である。
普天間の獅子舞は、旧暦7月13・15日の両日と8月15日に災厄を払い、部落の発展と豊年満作を祈願する目的で催されています。
大謝名の獅子舞は、戦後長らく絶えていましたが、区民の伝統芸能を大切にする心意気により、昭和51年の旧暦8月に33年ぶりに復活されました。 獅子舞は現在、8月15日の一夜だけ部落道の要所と公民館前の広場で催されますが、戦前は7月15日と8月15・16日の三日間も行われていました。
大山部落の旧家のひとつ伊波一門の来歴と拝みなどについて中国年号乾隆26年(1761)に建てられた石碑。
組踊り『姉妹敵討』では「あれや牧湊これや砂辺村、越えて湾渡貝地残波岬まで見渡せし広さ浦々の釣舟いざり火のかげでも目の前引き寄せて、眺めてもあかね伊佐の浜辺」 と詠まれる白砂が遠浅の浜辺につづく美しい海岸でありました。新作民謡の『十七八節』の一節では、「無蔵が待ち所 伊佐の浜の碑文よ 無蔵が待ち兼ねて肝あまじ」と歌われるなど 恋人たちの逢い引きの場所として登場します。このように石碑のある周辺は古くから部落の人々に親しまれ、美しい所としてしられていました。